静の家に居候すること早一週間が過ぎた。日々目まぐるしく過ぎていき、ようやくの休日である。春花はアパートの解約手続きをしに不動産屋まで出掛けた。同時に次の物件も探さなくてはいけないため何ヵ所か候補を出してもらい見学をさせてもらったが、結局その場で決めることはできなかった。「おかえり、今日は早かったね」マンションへ帰ると静がキッチンでコーヒーを淹れており、春花にもマグカップを差し出した。「ありがとう。今日は休日なの」「そっか。どこへ行っていたの?」「アパートの解約と次の物件探しだよ」静からマグカップを受け取ろうとして、春花はドキッと肩を揺らす。静の表情が強張っていたからだ。静は落ち着きながらも強い口調で言う。「なんで? 探す必要ないだろ? ここに住めばいいんだから」「ダメだよ」「どうして?」「だって……迷惑かかるし」「俺が一度でも迷惑だって言った?」「言ってないけど。でも……」と、そこで春花は口をつぐむ。いつだったかワイドショーで見た【ピアニスト桐谷静、フルート奏者と熱愛報道】が頭を過り、いたたまれない気持ちになってくるのだ。同級生だから、静が優しいから、だから困っていた春花を助けてくれただけであって、いつまでもそれに甘えてはいけない。静にも、静の恋人にも申し訳ないからだ。だがその事を口に出すことはできなかった。そんなことは知らないままで、ただ静に甘えられたらどんなに幸せだろうか。ずっと好きだったのだ。高校生のときからずっと、春花は静が好きだった。
離ればなれになり静がピアニストとして成功を収めていくにつれて、自分とは生きている世界線が違うのだと悟ったあの日、春花は静に対する【好き】という気持ちを【憧れ】へとシフトさせていった。そうやって気持ちをすり替えることで自分自身を納得させて過ごしてきた。だからこそ他に恋人を作ることができたし、高校生の時の思い出は綺麗なまま春花の心の中に大切に保管されている。静と再会できたことは奇跡のように感じるし居候させてもらっていることもまるで夢のようなのだ。ここできちんとけじめをつけないといけないのだろうと、春花は気持ちを強く持った。だがそんな春花の気持ちを静は一瞬で打ち破る。「俺が春花を守るって言っただろ?」その強くて優しい言葉は春花の心に突き刺さった。意図も簡単に。「……桐谷くん優しすぎるよ」「大事な春花のためだから」春花は自分自身が弱っていることを自覚していた。だから静の優しさは心地よくてつい甘えたくなる。高校生の時のようにずっと隣にいたいとさえ思えるのだ。そんなおこがましい考えを振り払うかのように、春花は別の話題を切り出した。「あ、店長が、来るなら一曲弾いてほしいって」「そう? なにがいいかな?」「トロイメライがいい。桐谷くんのトロイメライ、聴きたいな」「春花、来て」「え?」言われて静に着いていった先はピアノルームだ。静は椅子を引いて春花を座らせる。「覚えてるだろ? トロイメライ」「……うん」高校生の時に連弾したトロイメライは、春花にとって死ぬほど練習して今でも思い出して時々弾くくらい覚えている曲だ。静は春花の隣に座った。触れそうで触れない距離は春花の心臓をドキリとさせる。静が鍵盤に手を置いたのを見て、慌てて春花も手を置いた。「いくぞ」すうっという静の呼吸音を合図に、ポロンと指を動かした。春花の指、静の指から繰り出される鍵盤の響きはたくさんの音と混ざりあって深みを増していく。二人で奏でる広い音域はまるでそこに別の空間が存在するかのような魅力的な世界を生み出し、たちまち没頭させていった。久しぶりに沸き上がる高揚感。思い出される青春に胸がいっぱいになる。「春花……」「桐谷くん……」「あの時の続きを言わせて」「あの時?」「そう、最後にトロイメライを演奏した時の続き……」春花は目をぱちくりさせて首を傾げた。
◇コンクールも受験も無事に終わり、あとは卒業式を迎えるだけのある日の放課後。二人は音楽室に赴いていた。たくさんの思い出が詰まった音楽室、そしてグランドピアノ。「ねえ、卒業記念にトロイメライ弾かない?」「そうだな。これが山名と弾く最後のピアノか……」「うん、そうだね……」そんな会話をしてしまったために、二人の間にしんみりとした空気が流れる。本当にこれが最後の演奏だ。コンクールがあるからという理由で切磋琢磨してきた時間も、卒業を控えているだけの二人にはもう必要がなくなった。春花は胸の辺りをぐっと押さえる。(この演奏が終わったら告白しよう)これが最後のチャンスだ。これを逃したらもう告白できる気がしない。二人、進路は別々なのだから。決意を胸に春花はピアノに対峙する。隣にいる静をいつも以上に感じながら、想いを込めて鍵盤を打ち鳴らした。二人で奏でるトロイメライは最高に気持ちがいい。ずっと弾いていたい。 ずっと曲が終わらなければいいのに。弾き終わった直後、何物にも代えがたい高揚感が胸を熱くする。この余韻は忘れてはいけない。壊してはいけない。そう感じたからこそ、春花は静にとびきりの笑顔をみせた。「山名、俺……」「ずっと応援してるね。私、桐谷くんのファン1号だから。有名になったらコンサートのチケット送ってよね」「……ああ、わかった」気持ちを誤魔化したあの日。 寂しく笑った静。二人の気持ちは宙に浮いたまま、月日は流れた。◇「あの日って……?」「最後に二人でトロイメライを弾いた日のこと、覚えてる?」「うん」「あの時、俺は春花に伝えたいことがあったんだ」「伝えたいこと……」よみがえる思い出は春花の心臓をぎゅっと締めつける。込み上げる衝動は期待なのか、不安なのか。春花はじっと静の言葉を待つ。「好きだ。高校生の頃からずっと。春花が好きだ」あっという間に春花の心をかっさらうかのように、体の奥から忘れかけていた何かが解き放たれる。閉じ込めていた感情が溢れ出てくるのがわかった。胸が熱く、張り裂けそうになる。「……私も。あの時本当は伝えたかった。桐谷くんのことが好きって。でも言えなかったの……」「春花……」あの時、お互い好き同士だった。お互い遠慮して勇気がなくて、心地よい関係が壊れてしまうのを恐れて伝えることができなかった。一体何
静はずっと春花が好きだった。 春花の旋律は心地よく、人を癒すような旋律はずっと聴いていられる。まったく飽きない。だが彼女はいつも自分を卑下し、逆に静のピアノをすごいと褒める。それがなんだか悔しく、そしてむず痒かった。音楽一家に生まれた静は小さい頃からピアノを習わされた。強制的に始めたピアノだが、静はピアノが好きだった。重厚で繊細な音色は子供心にも胸を熱くさせる。上手く弾けたときの爽快感や達成感は体が震えるほどだ。だが年齢が上がるにつれて指導が厳しくなっていき、いつしかピアノを好きな気持ちがどこかへいってしまった。――できて当たり前だから誰も褒めてはくれない。ピアニストを目指して頑張ってきたのに、途中で何が何だかよくわからなくなってしまった。そんな時、春花に出会った。同じ音楽部でピアノが大好きで、優しい旋律だけじゃなく楽しそうに弾く。そんな自由な春花を見るたび、静は羨ましくて仕方なかった。「桐谷くんのピアノはずっと聴いていられるね」いつだって春花は静のピアノを褒め讃える。静だけではない、音楽部の一人一人をよく見ていて優しい言葉をかける。静にとって春花は、心にともしびをくれる天使のような存在だった。「あなたたち、連弾してみたらどう?」ある時顧問からそう提案された二人は、遠慮しつつも頷いた。お互い気になる存在ではあるものの、その距離感は遠い。だが、このことをきっかけに静と春花は一緒にいる時間が増え、ピアノの練習を媒介としてプライベートなことも話すようになっていった。それは求めていたことであり、関係が一歩進んだことに喜びを隠しきれない。毎日放課後が楽しくて仕方がなかった。「うちは両親が不仲だからさ、学校にいる方が楽しいんだ。桐谷くんとピアノを弾いている時間が一番楽しいかな」「俺も山名とピアノを弾くの好きだな」「……えへへ」お互い顔を見合わせて照れたように笑う。生きていれば誰だって嫌なことのひとつやふたつあるに決まっている。静だって、ピアノに関して言えば家庭に不満があるのだ。だから春花の悩みもその程度なのだろうと軽く考えていた。そうやって二人は想いを共有し意気投合することで、静の春花に対する想いは募っていった。
受験も近くなった頃、暗い表情をした春花を前に静は言葉がでなかった。「……ずっと一緒にピアノを弾きたかった。一緒に音大に行きたかった」春花の絞り出す言葉が矢となって静の心を刺す。ずっとこのまま楽しい毎日が続くのではないかと、錯覚することだってあった。むしろ続いてほしかった。一緒に音大に行きたかったのは静の方だ。春花とずっと一緒にいたいと願っていたのは静なのだ。このショックは計りきれない。春花の落ち込んだ姿を見るのは初めてだった。けれど春花はそれ以上何も言わず、すぐに普段通りの明るい春花に戻った。静にはわかっていた。それが春花の気遣いなのだと。一瞬見せた落ち込んだ姿はまるで嘘のように元の春花に戻っている。もしかしたら抱えきれない大きな不安や悩みがあるのかもしれない。それを押し殺しているのかもしれない。気づけば静は春花の手を掴んでいた。「俺の前で強がったりするな! 泣けばいいだろ」「……ううっ」春花の瞳からはポロポロと涙がこぼれ落ちる。気持ちを押し殺す春花をどうにか解放してやりたい。楽にしてやりたい。卒業式を間近に控えた放課後、二人は思い出のトロイメライを連弾した。これが学生生活最後の連弾かと思うとより一層熱がこもる。隣に座る春花の存在を感じ取りながら、心を込めて鍵盤を打ち鳴らした。演奏後の高揚感は静に勇気を与える。 今が告白のチャンスだと確信した。だが、静の気持ちとは裏腹に春花は笑顔で言う。「ずっと応援してるね。桐谷くんのファン1号だから。コンサートのチケット送ってよね」それは残酷だった。それ以上何も言わないでほしい、このままの関係を崩すなと言われているようにしか思えなかった。静は息をゴクンと飲み込む。 告白する前に玉砕したのだ。「……うん」それしか静は言葉が出ない。告白をするなんていう決意は一瞬で吹き飛んでしまったし、告白をしようという勇気すらどこかへ行ってしまったかのようだ。二人の関係が壊れるのが怖かった。 この心地よい距離感が変わってしまうのが怖かった。――絶対にピアニストになって春花にチケットを送るそう新たに決意し、二人の関係は進展することも壊れることもなく、穏やかに日々が過ぎていく。春花を守りたい。 春花を幸せにしたい。自分に何ができるのか全くわからなかったけれど、ただ、漠然とそう思った。卒業前に春
告白できなかったからといって、静の春花への気持ちが変わるわけではなかった。――俺が山名の分まで音大で頑張ってくる。ピアニストになってみせる音大に行けなくなったと泣いた春花にそう宣言した手前、頑張らない訳にはいかない。このもどかしくどうにもできない気持ちをぶつけるには、ピアノしかなかった。静にできることはピアノを弾き続けること。努力し続けること。静は大学で一心不乱にピアノに打ち込んだ。その甲斐あってか、静はめきめきと実力を発揮し、コンクールで何度も賞を取って順調に実績を積み重ねていった。静の初めてのコンサートは海外だった。決まったときはただただ嬉しくて、ようやくここまで来たのかと自信に満ち溢れた。「海外に来てとは言えないよな……」静はため息ひとつ、さすがに気が引けて春花にチケットは送らなかった。ここぞと言うときに遠慮してしまう悪い癖はなかなか直らない。あの時だって告白していたら……などと何度後悔したことだろう。「今さら遅いかもしれないけど……」自虐的に笑うと、自分の情けなさが露呈するようでなおさら落ち込んだ。もしも今後日本でコンサートを開催することがあれば、次こそは春花にチケットを送る。これ以上の後悔は重ねたくない。本当に、何もかも祈る気持ちだった。
日本の、それも地元で開催するコンサート開催を決めた静は、意を決して春花にチケットを送った。住所が変わっていたらどうしよう、ちゃんと届いたとしても果たして春花は来てくれるだろうか。これ以上後悔はしたくないと思いながらも不安はつのる。だが、それとは別に一歩踏み出した満足感もあった。やっとスタートラインに立てた気がしたのだ。自分が送ったチケットの席番号はわかっている。リハーサルのとき客席に下りて場所を確認し、舞台からもまた確認する。「……意識しすぎだろ、俺」自分の行動に思わず苦笑いをするが、それほどまでに春花を意識していることを改めて実感し、静の気持ちは益々高ぶっていった。 落とされた照明の中、静は春花を見つけた。はっきりとは見えないがそのシルエットだけで春花だと確信が持てる。チケットが届いたこと、春花が来てくれたことが、静の心を安堵と喜びで満たしていく。最高のパフォーマンスでおもてなしをし、春花への想いよどうか届けと願わずにはいられなかった。演奏を終えた静はジャケットだけ脱ぎ捨てると、慌てて出入り口まで走った。あわよくば春花と会いたい。そんな奇跡の再会を夢見るように、ひたすらキョロキョロと探し回る。と、ホールを出たところで一人歩く春花を見つけた。「山名!」静の声にビクッと肩を揺らし、春花は恐る恐る振り返った。「……桐谷、くん?」高校生の頃と全然変わっていない、いや、むしろ外見はとても綺麗で大人の女性になった春花に、静は胸がいっぱいになった。しゃべり方も穏やかで「桐谷くん」と呼んでくれることが何よりも嬉しい。まるで高校生の頃に戻ったかのように錯覚する。だが、ごめんと断りを入れて電話を取った春花の表情はずいぶんと強張っており、静は胸騒ぎがした。そして春花の口から「彼氏が……」と出てきたことに衝撃を受けた。「あはは、もう、困っちゃうよね。束縛なんてさ」何でもないように笑う春花は、音大に行けなくなったと告白した音楽室での出来事を彷彿とさせる。そんな春花を見たかったわけじゃない。幸せそうに笑う、天使みたいな春花を求めていた。五年も経てば環境も考え方も変わるだろう。それを差し引いたとしても、全然幸せそうじゃない春花の姿に静は激しく後悔した。なぜあの時告白しなかったのだろう、と。春花には笑っていてほしいのに。 俺のピアノで癒されるならいくら
◇甘く蕩けるようなキスは二人の失っていた時間を取り戻すかのように心に沁みて、そっと唇が離れた後も余韻が残っている。お互い顔を見合わせると、照れながらふふふと笑った。「ずっと好きだったんだ。だから春花に彼氏がいてどうしようかと思った」「私もずっと好きだったの。でも桐谷くんは雲の上の人だからあきらめてたの」「そんないいものじゃないよ」「ううん。すごいんだよ。……桐谷くんこそ彼女は?」「彼女?」「フルート奏者の人。芸能ニュースで見たよ」「ああ……。打ち上げがあって帰り一緒に帰っただけ。彼女でもなんでもないよ」「そっか」春花は胸を撫で下ろした。ずっとモヤモヤしていた気持ちは、静自身の言葉によって霧が晴れていくようにすっと引いていく。自分はまだここにいていいんだと安堵した。「だからさ、春花は出ていかなくていい。一緒に暮らそう」まるで心を見透かしたような静の発言は、春花の心臓をドキッと高鳴らせる。夢を見ているかのような展開に信じられない気持ちでいっぱいになり、春花は静に訴えた。「私の頬っぺたつねって」「ん? こう?」「……痛い」「えっ、ごめんっ! そんな強くつねったつもりじゃ……ごめん、大丈夫?」言われるがまま春花の頬をつねった静は、慌てて手を引っ込める。オロオロとし出す静に、春花は声を上げて笑った。「あははっ! 痛いから夢じゃないね!」「夢じゃないよ。驚かせるなよ」静は困ったように笑い、優しく春花の頬を撫でる。温かくて優しい手つきに、春花はうっとりと身を委ねた。「もう一回キスしていい?」「うん」甘く微笑んだ静に胸をときめかせながら、春花はゆっくりと目を閉じた。窓から差す木漏れ日は暖かく二人を包んでいるようだった。
「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」
家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。
「以前、店の前で人が刺される事件があったのはご存じですよね」「ええ、物騒ですよねぇ」「ピアニスト桐谷静の恋人のことは知っていますか?」「ああ、話題になっていますよね、三神メイサでしたっけ?」「三神メイサとは別に恋人がいることはご存じで?」「えっ! 二股ってことですか! やだー」「この店には桐谷静のサインがたくさんありますね。以前彼が来たらしいじゃないですか」「ええ、そうですね、以前来ていただいたんですよ」「どういうツテで?」「それは企業秘密ですよ」「桐谷静の恋人がこの店で働いているから?」「んもー、記者さんったら誘導尋問がお上手だこと。ここだけの話、実は私が大ファンなので知り合いに頼み込んでもらったんですよ。あ、これ他の店には秘密ですからね。絶対ですよ。あっ! もしかして桐谷静の二股の相手って私なのかしら? だとしたら光栄だわぁ」葉月の明るい声と記者の愛想笑いはその後しばらく続いたが、やがて埒が明かなくなったのか、記者の方が根負けて「今日はこのくらいで……」などと言って帰っていった。「あー、しつこい男だった」ため息とともに仕事に戻った葉月は、高くしていた声のトーンを落とす。「店長、すみません。私のせいで……」「社員を守るのも上の仕事よ。気にしないで。それより桐谷静が二股してるとか、その相手が私だとか、嘘言っちゃったわ。ごめんね」「いえ、いいんです。ありがとうございます」葉月の温かさが嬉しくて春花は目頭をじんわりさせた。本当に、良い職場で働いている。自分の蒔いた種なのにこんなにも守ってもらって贅沢ではないだろうか。ありがたいと同時に申し訳なさが込み上げてきて、春花は胸が押しつぶされそうになった。
何もかも順調にいっていると思っていたある日のこと。「すみません」レジで作業をしていた春花は声をかけられ顔を上げた。「はい、いらっしゃいませ」「以前、店の前で人が刺される事件がありましたよね。そのことについて少しお伺いしたいのですが」「えっと……」戸惑う春花に名刺が差し出される。 ぱっと目を走らせると、有名な雑誌社の名前が印刷されていた。「桐谷静の恋人と元彼がトラブルになったことを調べています」「えっ……あの……」ドキンと心臓が嫌な音を立てる。 この記者の目的は何だろうか。ドキンドキンと大きな不安に押しつぶされそうになり、言葉を飲み込む。 春花が何も言えないでいると、様子に気づいた葉月が横からすっと割り込んだ。「お客様、そういったご用件は店長である私がお受けいたしますので、従業員に聞き込みするのはやめて頂けますか? うちも商売なので、他のお客様に迷惑になる行為はやめていただきたいんですよぉ」「ああ、これは失礼しました。では店長さんにお話を伺っても?」「ええ、どうぞ。ではこちらに」葉月はスムーズに人気のないレッスン室の方へ誘導する。ドキドキと動悸が激しくなる春花は、一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。葉月と雑誌の記者の話が気になり、こっそりと聞き耳を立てた。
静は単独公演のみならず、三神メイサとのデュオでも大きな実績を上げた。国際コンクールにおいて優勝し、世界の舞台で通用する演奏家として名を馳せたのだ。静とメイサ、二人の偉業は大きく、連日ニュースが飛び交う。『静とは初めて演奏したときから運命を感じていました。これからも長い付き合いになると思います』カメラ目線で自信満々にコメントするメイサに、数々のフラッシュが飛び交う。『桐谷さんも一言コメントをお願いします』『そうですね……。このように受賞できたこと、光栄に思います』二人が微笑み合う姿は多くのメディアに取り上げられ、SNS上では「お似合いの二人」とまで囃し立てられていた。そんなものを目にしてしまった春花はドキンと心臓が変に脈打つ。静とメイサがそんな関係ではないことはわかっているし、静からもいつだって「愛している」と連絡が来る。もちろんその言葉を信じているのだが、さすがにこれだけ話題になると精神的に響くものがあった。「静、おめでとう! ニュースで見たよ!」『ありがとう。春花に一番に伝えたかったけど、メディアに先を越されたな』「それは仕方ないよ。今や日本を代表するピアニストだね」『まだまだこれからだけどね。でも一歩踏み出せたかな』「これからどんどん有名になるんだろうね。なんだか静が遠く感じられるなぁ」『俺はいつだって春花の元に飛んでいくよ』「そういう意味じゃなくて、雲の上の人ってことだよ。本当に、おめでとう。店長なんて大盛り上がりでCD平積みしてたよ」『日本に帰ったらお礼しに行かないとね。春花ごめん、今から祝賀会があるんだ。また連絡するから』「うん、わかった」『春花』「うん?」『愛してる』「私も、愛してるよ」電話越しの静はいつも通り優しく穏やかで、モヤモヤしていた春花の心もすうっと晴れていく。声を聞くだけで安心できるなんて、単純極まりない。そんな自分に春花はクスクスと笑った。
静は海外へ、春花も職場復帰し、いつも通りの日常が始まった。寂しさや物足りなさは密な連絡を取ることで回避され、お互い順調なスタートを切っていた。「山名さん、ニュース見たわよ! さすが桐谷静!」「はい、ありがとうございます!」二ヶ月が過ぎた頃すぐに大成功をおさめたニュースが飛び込んできて、恋人の活躍に春花は誇らしい気持ちになった。店に静が来訪してからというもの、社員たちの桐谷静推しも増している。やはり静が海外に行くことは正しかったのだと、証明しているようだった。「そうそう、山名さん。新規の生徒さんが入りそうなんだけど、受け持ってもらえない?」「すみません、ありがたいお話ではあるんですけど……」「まだ手首に違和感があるの?」春花が無意識に押さえた左手首を見て、葉月は心配そうに尋ねる。「そう……ですね。申し訳ないです」「ううん、いいのよ」「はい、ありがとうございます」春花は申し訳なく眉を下げた。捻挫した左手首はもうすっかり治っている。痛むこともなければ何かに不自由することもない。元通りの状態だというのに、ピアノを弾くときだけほのかに違和感を感じていた。「はぁー」無意識に出るため息は、春花の心をモヤモヤさせる。日々の生活に不満はないのに、なぜこんなにもやるせない気持ちになるのか。「静、頑張ってるなぁ」遠く離れた恋人を想いながら、春花はレッスン室に入っていった。
「私は十分幸せだよ。それより私のせいで静がピアノを弾けない方が嫌だよ」「ピアノなら国内でも弾けるよ。それに俺が海外公演に行ったら春花を守ることができなくなる」「大丈夫だよ。高志は逮捕されたし、私だってそんなに弱くないのよ」「……俺に海外に行けって言ってるの?」まるで運命のように再会してこうして恋人にもなれた。静にはたくさん助けてもらった。今度は春花が静を応援したい。好きなピアノを好きなだけ弾いていてほしい。「私は夢を追いかけている静が好きだよ。私のせいで静が小さな世界にいるのは嫌なの。だから遠慮なく行ってきて。これはチャンスなんでしょう?」春花の口からペラペラと出てくる言葉は嘘偽りない。静にはもっと自由に羽ばたいてほしいと願っているからだ。そして春花自身も、前に進みたいと思っている。静や葉月に守ってもらってばかりではなく、自分の力で未来に向かって進んでいきたい。そう心から思えるようになったのは、やはり静のおかげなのだ。「ねえ、春花の夢はなに?」「うーん、たくさんの人にピアノの魅力を伝えること、かな。静の夢は?」「……ピアノで世界中の人を魅了すること」「だよね。行きたいんでしょう? 行ってきなよ。やらずに後悔しないで。私も静が世界に羽ばたく姿、見たいな」「春花、一緒に……」「一緒にはいかないよ。だって私にはたくさんの生徒さんがいるんだから」ニッコリ笑う春花が眩しくて、静の方が胸が苦しくなる。思わず彼女を引き寄せてかたく抱きしめた。夢と現実は相反する。 手の届く温もりを手放すのは勇気がいるし、それと同様に、抱いてきた夢を諦めるのも勇気がいる。どちらが正しいかなんて誰もわからない。お互いの見据える先は果たして同じ方向を向いているのだろうか。二人が決めた道は未知の世界だった。
◇ 「春花、どうした?」リハビリがてら家でピアノを弾いていた春花だったが、曲の途中で手が止まり、すぐそばで聴いていた静が声をかける。「ううん。何でもないよ」フルフルと首を横に振るが、捻った左手首が思うように動かせず先ほどから納得のいかない演奏に気持ちが沈んでくる。「少しずつだよ、春花」察して静は春花の左手首を優しく撫でる。その心遣いが優しすぎて春花は胸が苦しくなった。いつだって静は春花を優先する。ピアノのリハビリもずっと付き合ってくれている。静だって次の公演に向けて練習をしなくてはいけないはずなのに、「俺はいいから」と身を引くのだ。そんな優しさが、かつての自分を見ているようで苦しい。そんなに気を遣わなくていいのに。 もっとわがままになってくれていいのに。「ねえ静、海外公演を断ったって本当?」「春花、その話どこから……?」「やっぱりそうなの?」「いいんだよ、それは。別にピアノなんてどこにいても弾けるだろう?」「でも夢なんでしょう? 世界中の人を魅了するのが静の夢」核心を突くような言葉に静は息を飲んだ。だがすぐに首を小さく横に振る。「俺の今の夢は春花を幸せにすることだよ」優しさが一層春花の胸を締めつける。それはそれとして静の本心なのだろうと思う。だがその言葉の裏にはやはり自分の感情を押し込めていると思わざるを得ない。静は誰よりも努力家で誰よりもピアノが好きで、もっと世界に羽ばたきたいと願っている。ずっと近くで見てきた春花だからこそ、わかるのだ。
三神メイサの言葉がぐるぐると巡る思考の中、春花の頭の中には高校生の時の静の言葉がよみがえる。『俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ』そう言った静はキラキラと輝いていた。春花はそんな静を応援したいと心から思っていたのだ。(ああ、そうだった。静の夢は世界に羽ばたくピアニストなんだった)そう思った瞬間、春花の心の中にあった何かが崩れ落ちた気がした。静とは一緒にいたい。ずっとずっと好きだったのだから。 ようやく手に入れた自分の居場所。これからも大切にしたいと思っているのに。 自分が愛されている、守られていることをひしひしと感じる幸せな今の生活。でもそれはすべて静の夢を犠牲にして成り立っているという現実。もし静が海外にいったらどうなるのだろう。 もっともっと有名になったらどうなるのだろう。平穏が変わってしまう事を考えると怖くてたまらない。静がいない生活なんて考えられない。でも……。 だからといって、自分のために夢を犠牲にするなんてことはしてほしくなかった。一緒に音大にいけなかった、ピアニストの夢をあきらめた春花にとって、今でも静の夢には全力で応援したいと心から思う。それが春花の夢でもあるからだ。(私なんかのために夢をあきらめちゃダメだよ)込み上げる涙を我慢して、春花はメイサの元を去った。