静の家に居候すること早一週間が過ぎた。日々目まぐるしく過ぎていき、ようやくの休日である。春花はアパートの解約手続きをしに不動産屋まで出掛けた。同時に次の物件も探さなくてはいけないため何ヵ所か候補を出してもらい見学をさせてもらったが、結局その場で決めることはできなかった。「おかえり、今日は早かったね」マンションへ帰ると静がキッチンでコーヒーを淹れており、春花にもマグカップを差し出した。「ありがとう。今日は休日なの」「そっか。どこへ行っていたの?」「アパートの解約と次の物件探しだよ」静からマグカップを受け取ろうとして、春花はドキッと肩を揺らす。静の表情が強張っていたからだ。静は落ち着きながらも強い口調で言う。「なんで? 探す必要ないだろ? ここに住めばいいんだから」「ダメだよ」「どうして?」「だって……迷惑かかるし」「俺が一度でも迷惑だって言った?」「言ってないけど。でも……」と、そこで春花は口をつぐむ。いつだったかワイドショーで見た【ピアニスト桐谷静、フルート奏者と熱愛報道】が頭を過り、いたたまれない気持ちになってくるのだ。同級生だから、静が優しいから、だから困っていた春花を助けてくれただけであって、いつまでもそれに甘えてはいけない。静にも、静の恋人にも申し訳ないからだ。だがその事を口に出すことはできなかった。そんなことは知らないままで、ただ静に甘えられたらどんなに幸せだろうか。ずっと好きだったのだ。高校生のときからずっと、春花は静が好きだった。
離ればなれになり静がピアニストとして成功を収めていくにつれて、自分とは生きている世界線が違うのだと悟ったあの日、春花は静に対する【好き】という気持ちを【憧れ】へとシフトさせていった。そうやって気持ちをすり替えることで自分自身を納得させて過ごしてきた。だからこそ他に恋人を作ることができたし、高校生の時の思い出は綺麗なまま春花の心の中に大切に保管されている。静と再会できたことは奇跡のように感じるし居候させてもらっていることもまるで夢のようなのだ。ここできちんとけじめをつけないといけないのだろうと、春花は気持ちを強く持った。だがそんな春花の気持ちを静は一瞬で打ち破る。「俺が春花を守るって言っただろ?」その強くて優しい言葉は春花の心に突き刺さった。意図も簡単に。「……桐谷くん優しすぎるよ」「大事な春花のためだから」春花は自分自身が弱っていることを自覚していた。だから静の優しさは心地よくてつい甘えたくなる。高校生の時のようにずっと隣にいたいとさえ思えるのだ。そんなおこがましい考えを振り払うかのように、春花は別の話題を切り出した。「あ、店長が、来るなら一曲弾いてほしいって」「そう? なにがいいかな?」「トロイメライがいい。桐谷くんのトロイメライ、聴きたいな」「春花、来て」「え?」言われて静に着いていった先はピアノルームだ。静は椅子を引いて春花を座らせる。「覚えてるだろ? トロイメライ」「……うん」高校生の時に連弾したトロイメライは、春花にとって死ぬほど練習して今でも思い出して時々弾くくらい覚えている曲だ。静は春花の隣に座った。触れそうで触れない距離は春花の心臓をドキリとさせる。静が鍵盤に手を置いたのを見て、慌てて春花も手を置いた。「いくぞ」すうっという静の呼吸音を合図に、ポロンと指を動かした。春花の指、静の指から繰り出される鍵盤の響きはたくさんの音と混ざりあって深みを増していく。二人で奏でる広い音域はまるでそこに別の空間が存在するかのような魅力的な世界を生み出し、たちまち没頭させていった。久しぶりに沸き上がる高揚感。思い出される青春に胸がいっぱいになる。「春花……」「桐谷くん……」「あの時の続きを言わせて」「あの時?」「そう、最後にトロイメライを演奏した時の続き……」春花は目をぱちくりさせて首を傾げた。
◇コンクールも受験も無事に終わり、あとは卒業式を迎えるだけのある日の放課後。二人は音楽室に赴いていた。たくさんの思い出が詰まった音楽室、そしてグランドピアノ。「ねえ、卒業記念にトロイメライ弾かない?」「そうだな。これが山名と弾く最後のピアノか……」「うん、そうだね……」そんな会話をしてしまったために、二人の間にしんみりとした空気が流れる。本当にこれが最後の演奏だ。コンクールがあるからという理由で切磋琢磨してきた時間も、卒業を控えているだけの二人にはもう必要がなくなった。春花は胸の辺りをぐっと押さえる。(この演奏が終わったら告白しよう)これが最後のチャンスだ。これを逃したらもう告白できる気がしない。二人、進路は別々なのだから。決意を胸に春花はピアノに対峙する。隣にいる静をいつも以上に感じながら、想いを込めて鍵盤を打ち鳴らした。二人で奏でるトロイメライは最高に気持ちがいい。ずっと弾いていたい。 ずっと曲が終わらなければいいのに。弾き終わった直後、何物にも代えがたい高揚感が胸を熱くする。この余韻は忘れてはいけない。壊してはいけない。そう感じたからこそ、春花は静にとびきりの笑顔をみせた。「山名、俺……」「ずっと応援してるね。私、桐谷くんのファン1号だから。有名になったらコンサートのチケット送ってよね」「……ああ、わかった」気持ちを誤魔化したあの日。 寂しく笑った静。二人の気持ちは宙に浮いたまま、月日は流れた。◇「あの日って……?」「最後に二人でトロイメライを弾いた日のこと、覚えてる?」「うん」「あの時、俺は春花に伝えたいことがあったんだ」「伝えたいこと……」よみがえる思い出は春花の心臓をぎゅっと締めつける。込み上げる衝動は期待なのか、不安なのか。春花はじっと静の言葉を待つ。「好きだ。高校生の頃からずっと。春花が好きだ」あっという間に春花の心をかっさらうかのように、体の奥から忘れかけていた何かが解き放たれる。閉じ込めていた感情が溢れ出てくるのがわかった。胸が熱く、張り裂けそうになる。「……私も。あの時本当は伝えたかった。桐谷くんのことが好きって。でも言えなかったの……」「春花……」あの時、お互い好き同士だった。お互い遠慮して勇気がなくて、心地よい関係が壊れてしまうのを恐れて伝えることができなかった。一体何
放課後の音楽室は傾き始めた太陽の日差しが燦々と降り注いで、室内をセピア色に染めていた。春花《はるか》は耳を研ぎ澄ます。隣に座る静《せい》と目配せをし呼吸を合わせ、指先に神経を集中させた。静のすうっという呼吸音を合図に指を動かす。ポロンポロンと柔らかいピアノの音色が教室に響き渡り、心地よい空間が生み出された。山名春花《やまなはるか》と桐谷静《きりたにせい》は高校三年生。一年のときから音楽部に所属している。二人ともピアノが得意で、合唱コンクールのときはどちらがピアノを担当するかでよく議論になった。「桐谷くんのピアノはすごいから」たいていは春花がそう結論付けて身を引いていたのだが、いつからか静も、「今回は山名の方が上手いと思う」と春花のピアノの腕を認めるようになっていた。もともと合唱に力を入れていた音楽部だったが、二人のピアノの実力を認めていた顧問は音楽部とは別に、連弾でコンクールに出場してみないかと提案した。ピアノコンクールは予選、本選、コンサートと一年がかりのイベントだ。当然予選を突破しなければ次へ進めないのだが、春花と静は毎日放課後に音楽室で練習に励んだ。高校三年生ともなると基本的に部活は夏の大会を最後に引退となる。そして受験モードへ移行していくわけなのだが、順調に予選を突破した二人は夏を過ぎても音楽室に入り浸っていた。
「桐谷くんは進路どうするの? やっぱり音大目指してる?」「うん。俺の夢はピアニストだから」「ピアニストかぁ。なんかすっごくしっくりくるね」「山名は?」「私はまだ迷ってる」「山名も目指せよ、ピアニスト。一緒に音大行こうぜ」「桐谷くんとはレベルが違うってば」「なんで? 俺、山名のピアノすごく好きだけど」なんでもなくさらっと放たれた静の言葉は、春花の心に深く刻まれる。静は子供の頃からピアノ一筋で、通っているピアノ教室で開催されるコンテストでたびたび賞を取っているほど、まわりからも将来を期待されている逸材だ。一方の春花も子供の頃からピアノが大好きでずっとピアノを習っているが、有名なピアノ教室ではないためコンテストはもちろんのこと発表会すらない、本当に趣味程度のピアノの腕前だった。「俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ」「すごい! いつか桐谷くんのコンサートに行きたい」「まずは連弾で優勝だな」「うん!」毎日音楽室でピアノを弾き、休憩中はたわいもないことをおしゃべりする。春花はこの時間が何よりも癒されるものだった。いつも帰る時間になると寂しくなってしまう。ずっと静とピアノを弾けたらどんなに幸せだろうか。将来を想像しては頬を緩ませた。
春花も音大を志望し、二人のピアノは益々熱が入った。受験は一月。連弾のコンクールも一月というハードスケジュールだったが、お互い何も苦ではなかった。むしろ二人でいられる時間が幸せすぎて、勉強もピアノもどんどん向上していく。だが、ある日春花が家に帰ると、いつもと様子が違っていて不思議に思う。「……ただいま」キッチンにいるであろう母に向かって声をかけると、「おかえり」と明るい声が返ってきて春花はドキッとする。春花の両親はずいぶん前から不仲で、家はいつも雰囲気が悪かった。居心地の悪さから春花は家に帰るとすぐに自室へこもって過ごしていたのだが、なぜか今日は母の機嫌がいい。「春花、話があるのよ」「あ、うん。カバン置いてくる」ドキドキと脈打つ鼓動はやがて胸騒ぎへと変わっていく。なんとなく覚悟を持って母の元に行くと、食卓にはケーキが用意されており、母の口からは離婚したことを告げられた。「春花にはずっと辛い想いをさせてごめんね」そういう母の顔はずいぶんと晴れ晴れしており、春花の知らないところでいろいろな苦労があったのだろうと推測された。「それでね、この家も売ることになったのよ。近くのアパートを借りるから、学校に通いにくくなることはないと思うけど」「うん、わかった」「春花、ピアノなんだけど……」「わかってる。持っていけないんだよね?」「ごめんね」「大丈夫。ピアノは学校で弾けばいいし、貯金してあるお年玉でキーボードでも買うよ。それよりよかったね、離婚できて」「春花、ありがとう」「で、お祝いのケーキってこと?」「……お祝いとお詫びを兼ねて。春花には悲しい想いをさせてしまうわ」「別に悲しくなんてないよ。お父さんとはもうずいぶんしゃべってないし、お母さんが笑っててくれる方が私は幸せ」「春花……」母はグスグスと鼻をすすり、春花は何でもないようにケーキを平らげた。
自室に戻りベッドへ突っ伏す。両親が不仲でいつだって雰囲気が悪く居心地の悪い家。離婚するなら早くすればいいのにと、春花は密かにずっと思っていた。だから心の準備はできていたはずだった。父とは会話のない生活がずっと続いている。別に嫌っているわけではないが、離婚したら母について行くのだろう。引っ越すのならピアノは持っていけないかもしれない。などと大方の予想はできていたのだ。「はぁー」春花のため息は誰に聞かれることもなく、虚しく抜けていく。いくら予想していたとはいえ、受験もコンテストも控えているこの時季に生活が変わるのだ。少なからずともダメージはある。「音大、行けないんだろうな……」大学はお金がかかる。それくらい春花は理解している。自分の将来が変わってしまうことを憂いじわじわと押し寄せる感情に泣き崩れた。「……ううっ……桐谷くん」何より静と一緒に音大に行けないことの事実が、春花の胸をぎゅうぎゅうと締めつける。春花は静とピアノを弾くことがとても幸せだ。あの時間は本当にかけがえのないもので、大切にしていきたい空間である。それはこれからもずっと、静と共にありたいと願うことでもある。「桐谷くんと離れ離れかぁ」春花の気持ちは静は知らない。伝えて壊れるくらいなら、伝えずにずっとこうして仲良くピアノを弾いていたい。だから同じ音大を目指していたというのに……。
◇静の呼吸音を合図にポロロンと鍵盤を叩く。お互いの呼吸を合わせて流れるように指を動かす。演奏中、普段は触れない相手の手を掠めるということが今日は何度もあった。「山名、今日どうかした?」「ごめん、なんか調子悪いみたい。練習不足かも」俯いて手を握る春花に、静は怪訝な顔をする。もうすぐコンクールだというのに、こんな初歩的なミスを何度も犯す春花はどこかおかしい。「なんか、あった? 今日、元気ない」音楽室に入ってきたときから感じていた春花の違和感。気のせいかと思っていた静だったが、この様子ではやはり気のせいではないらしい。「……うん」口数少なく春花は小さく頷くと、やがて深いため息とは裏腹に、静に笑顔を見せた。「桐谷くんごめん。私、音大受験できなくなっちゃってさ」「えっ?」「両親が離婚したんだ。仕方ないよね、音大ってすごく高いんだもん。お母さんに負担かけたくないし。だから保育の専門学校を受験することにしたの。保育士ってピアノ使うじゃない? だからいいかなーって。まあなんていうか、ピアノ触れるだけ嬉しいっていうか……」捲し立てるように早口で言う春花はずっとニコニコしていてそれが逆に静の胸を苦しくする。「桐谷くんは音大頑張ってよね! さ、もう一回練習しよっ!」春花は明るく振る舞いながら鍵盤に手を置く。いつでも準備万端とばかりにその時を待つが、静は一向に始めようとしない。春花の手は静によって鍵盤から下ろされた。掴まれた手首は思いのほか力が強く、春花は驚いて静を見る。「無理すんな。本当は行きたかったんだろ、音大」「……そんなことないよ」「俺の前で強がったりするな!」「桐谷くん……」「そんな泣きそうな顔して何言ってるんだ。泣けよ。泣けばいいだろ」「……ううっ」体の奥の方から溢れてくる気持ちはどんどんと膨れ上がって、やがて春花の視界をぼかす。
◇コンクールも受験も無事に終わり、あとは卒業式を迎えるだけのある日の放課後。二人は音楽室に赴いていた。たくさんの思い出が詰まった音楽室、そしてグランドピアノ。「ねえ、卒業記念にトロイメライ弾かない?」「そうだな。これが山名と弾く最後のピアノか……」「うん、そうだね……」そんな会話をしてしまったために、二人の間にしんみりとした空気が流れる。本当にこれが最後の演奏だ。コンクールがあるからという理由で切磋琢磨してきた時間も、卒業を控えているだけの二人にはもう必要がなくなった。春花は胸の辺りをぐっと押さえる。(この演奏が終わったら告白しよう)これが最後のチャンスだ。これを逃したらもう告白できる気がしない。二人、進路は別々なのだから。決意を胸に春花はピアノに対峙する。隣にいる静をいつも以上に感じながら、想いを込めて鍵盤を打ち鳴らした。二人で奏でるトロイメライは最高に気持ちがいい。ずっと弾いていたい。 ずっと曲が終わらなければいいのに。弾き終わった直後、何物にも代えがたい高揚感が胸を熱くする。この余韻は忘れてはいけない。壊してはいけない。そう感じたからこそ、春花は静にとびきりの笑顔をみせた。「山名、俺……」「ずっと応援してるね。私、桐谷くんのファン1号だから。有名になったらコンサートのチケット送ってよね」「……ああ、わかった」気持ちを誤魔化したあの日。 寂しく笑った静。二人の気持ちは宙に浮いたまま、月日は流れた。◇「あの日って……?」「最後に二人でトロイメライを弾いた日のこと、覚えてる?」「うん」「あの時、俺は春花に伝えたいことがあったんだ」「伝えたいこと……」よみがえる思い出は春花の心臓をぎゅっと締めつける。込み上げる衝動は期待なのか、不安なのか。春花はじっと静の言葉を待つ。「好きだ。高校生の頃からずっと。春花が好きだ」あっという間に春花の心をかっさらうかのように、体の奥から忘れかけていた何かが解き放たれる。閉じ込めていた感情が溢れ出てくるのがわかった。胸が熱く、張り裂けそうになる。「……私も。あの時本当は伝えたかった。桐谷くんのことが好きって。でも言えなかったの……」「春花……」あの時、お互い好き同士だった。お互い遠慮して勇気がなくて、心地よい関係が壊れてしまうのを恐れて伝えることができなかった。一体何
離ればなれになり静がピアニストとして成功を収めていくにつれて、自分とは生きている世界線が違うのだと悟ったあの日、春花は静に対する【好き】という気持ちを【憧れ】へとシフトさせていった。そうやって気持ちをすり替えることで自分自身を納得させて過ごしてきた。だからこそ他に恋人を作ることができたし、高校生の時の思い出は綺麗なまま春花の心の中に大切に保管されている。静と再会できたことは奇跡のように感じるし居候させてもらっていることもまるで夢のようなのだ。ここできちんとけじめをつけないといけないのだろうと、春花は気持ちを強く持った。だがそんな春花の気持ちを静は一瞬で打ち破る。「俺が春花を守るって言っただろ?」その強くて優しい言葉は春花の心に突き刺さった。意図も簡単に。「……桐谷くん優しすぎるよ」「大事な春花のためだから」春花は自分自身が弱っていることを自覚していた。だから静の優しさは心地よくてつい甘えたくなる。高校生の時のようにずっと隣にいたいとさえ思えるのだ。そんなおこがましい考えを振り払うかのように、春花は別の話題を切り出した。「あ、店長が、来るなら一曲弾いてほしいって」「そう? なにがいいかな?」「トロイメライがいい。桐谷くんのトロイメライ、聴きたいな」「春花、来て」「え?」言われて静に着いていった先はピアノルームだ。静は椅子を引いて春花を座らせる。「覚えてるだろ? トロイメライ」「……うん」高校生の時に連弾したトロイメライは、春花にとって死ぬほど練習して今でも思い出して時々弾くくらい覚えている曲だ。静は春花の隣に座った。触れそうで触れない距離は春花の心臓をドキリとさせる。静が鍵盤に手を置いたのを見て、慌てて春花も手を置いた。「いくぞ」すうっという静の呼吸音を合図に、ポロンと指を動かした。春花の指、静の指から繰り出される鍵盤の響きはたくさんの音と混ざりあって深みを増していく。二人で奏でる広い音域はまるでそこに別の空間が存在するかのような魅力的な世界を生み出し、たちまち没頭させていった。久しぶりに沸き上がる高揚感。思い出される青春に胸がいっぱいになる。「春花……」「桐谷くん……」「あの時の続きを言わせて」「あの時?」「そう、最後にトロイメライを演奏した時の続き……」春花は目をぱちくりさせて首を傾げた。
静の家に居候すること早一週間が過ぎた。日々目まぐるしく過ぎていき、ようやくの休日である。春花はアパートの解約手続きをしに不動産屋まで出掛けた。同時に次の物件も探さなくてはいけないため何ヵ所か候補を出してもらい見学をさせてもらったが、結局その場で決めることはできなかった。「おかえり、今日は早かったね」マンションへ帰ると静がキッチンでコーヒーを淹れており、春花にもマグカップを差し出した。「ありがとう。今日は休日なの」「そっか。どこへ行っていたの?」「アパートの解約と次の物件探しだよ」静からマグカップを受け取ろうとして、春花はドキッと肩を揺らす。静の表情が強張っていたからだ。静は落ち着きながらも強い口調で言う。「なんで? 探す必要ないだろ? ここに住めばいいんだから」「ダメだよ」「どうして?」「だって……迷惑かかるし」「俺が一度でも迷惑だって言った?」「言ってないけど。でも……」と、そこで春花は口をつぐむ。いつだったかワイドショーで見た【ピアニスト桐谷静、フルート奏者と熱愛報道】が頭を過り、いたたまれない気持ちになってくるのだ。同級生だから、静が優しいから、だから困っていた春花を助けてくれただけであって、いつまでもそれに甘えてはいけない。静にも、静の恋人にも申し訳ないからだ。だがその事を口に出すことはできなかった。そんなことは知らないままで、ただ静に甘えられたらどんなに幸せだろうか。ずっと好きだったのだ。高校生のときからずっと、春花は静が好きだった。
とても心地良い気分でスッキリと目覚めた春花は、あまりの爽やかさにうーんと大きく伸びをした。久しぶりにぐっすり寝たような、そんな気分だ。自分に掛けられている毛布を見て、ようやくここが静のマンションだったことを思い出した。「……ショパン?」耳を撫でるピアノの音に春花は顔を上げる。心地良い揺らぎはこのピアノの音だったのだろう。静は春花に気付くと、ニッコリ微笑んで演奏の手を止めた。「桐谷くんごめん、なんか寝ちゃって。ショパンだったよね?」「うん。春花がよく眠れるように」「すごくよく眠れたよ」「それならよかった。春花がつらそうに寝てたから」「ねえ、もしかして帰ってきてからずっと弾いていたの?」「春花の寝顔が可愛かったから、ずっと見ていたくて」「ええっ!」流された視線が予想外に甘くて、春花は思わず頬を赤らめながら目をそらす。それに、いつの間にか「山名」から「春花」へ呼び方が変化していることに動揺が走った。変に意識してしまったことに焦りを覚えるが、それに対して静は何も気にしていないようだ。「あ、あのさ、名前で呼ばれるとなんか恥ずかしいっていうか、ドキドキしちゃうっていうか……」ゴニョゴニョと静に訴えてみる。 静は立ち上がり春花の元に行くと、彼女を覗き込むようにして視線を合わせた。「な、なに?」「春花をドキドキさせてるんだ」微妙な距離がもどかしい。 お互いの呼吸音が聞こえ、毛布の擦れる音さえも大きく聞こえる。ドキドキと高鳴る鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほどの距離感は、まるでキスをするような感覚に似ている。近づく距離に反射的に目を閉じた。 と、その時。「ニャア」鳴き声にはっと我に返り、春花はほんの少し仰け反る。猫は春花の腕にグリグリと頭を擦り付けていた。「あ……」「こら、邪魔するなよ」静がため息混じりに猫を抱き上げると、猫は静の腕をするりと抜け、目を真ん丸にしながら床をあざとくゴロンゴロンと転がった。「……お前」「あ、猫。猫飼ってたんだね」「ああ、猫アレルギーじゃないよね?」「大丈夫。すごく人懐っこいね。名前、何て言うの」「……」「……?」静は開きかけた口を躊躇いがちに閉ざし、春花は不思議に思い首を傾げる。ふいと春花から視線をそらすと、ぼそりと呟いた。「……トロイメライ」「ニャア」静の言葉に反応
春花は何だか惨めな気分になり、泣きたくなった。と、突然携帯が鳴り出す。「もしもし?」『春花、何で出ていくんだ?』「高志……。あなたが出ていけって言ったじゃない」『そんなの嘘に決まってるだろ。春花を試したんだ。ああやって言えば春花は優しいから振り向いてくれると思った』何を言われても、高志の言葉は嘘にしか聞こえない。もう彼に振り回されるのはうんざりだ。「もうアパートの契約解除するから。あなたも出ていってね。私知らないから」『は? ちょっと待てお前何言ってんの? くそが、死ねよ』「もう私は死んだと思って。さよなら」春花は今まで出したことのない冷ややかな口調で告げ、乱暴に電話を切った。「はぁー」ほんの少し緊張が解け、その場にペタンとへたれこむ。手のひらから滑り落ちた携帯電話は何度も鳴り続け、高志からの着信履歴で埋まっていった。一体いつまでそうしていたかわからない。「ニャア」「……猫?」春花の左指をクンクンと鼻を擦り付けながら時折ペロペロと舐める猫。「……桐谷くん猫飼ってたんだ。君、慰めてくれるの? 優しいね」「ニャア」猫は人懐っこく春花に擦り寄り、撫でてほしいとばかりに頭をグリグリと寄せる。「ふふっ、可愛いね」春花は要求通り頭を撫でてやる。猫は気持ち良さそうに目を細めた。静が帰宅するとピアノルームから明かりが漏れており、不思議に思ってそっと中を覗く。中では春花が横たわっており、驚いて思わず声を上げそうになった。「春……」「ニャア」春花に包まれるようにして猫が顔を上げ、その心地良さそうな表情に二人で寝ていただけなのかとほっと胸を撫で下ろす。「まったく、驚かすなよ。ほら春花、こんなところで寝ると風邪ひく――」揺り動かそうとして、ハタと手が止まった。春花の目元は涙に濡れ、苦しそうな表情で眠っていたからだ。「ニャア」「お前、春花のこと慰めてたのか? 偉いな」静が撫でようとすると猫はその手をすっと避け、再び春花の胸元で丸くなる。「……おい、飼い主は俺だぞ」静は苦笑いしながら立ち上がると、別室から毛布を持ってきて二人に掛けてやった。コンコンと眠り続ける春花。固く握られた手。静はその手にそっと触れる。「……遅くなってごめん」小さく呟いた言葉は、猫だけが片耳をピクッと揺らして聞いていただけだった。
仕事が終わった春花は迷わず静のマンションへ帰った。渡された合鍵でエントランスの自動ドアを解除する。スッと音もなく開くドアは高級感に溢れており、エントランスの天井は高くクッション性の良さそうなソファーが優雅に出迎えてくれた。自分のアパートとは違う感覚は、春花の心を幾ばくか緊張させる。玄関のドアさえも重厚な造りで力を込めないと開かなかった。「た、ただいまぁ」遠慮がちに呼び掛けてみるも、部屋はしんと静まり返っていて人の気配はない。「お、お邪魔します」そろりそろりと入っていくと、ピアノルームの扉が開いていた。そっと中を覗くと自動で照明が点き、春花はわあっと声を上げた。部屋の真ん中に立派なグランドピアノが置いてある。照明が反射してキラキラと光っている様は、音楽室を彷彿とさせた。そっと蓋を開け鍵盤を弾くと、ポンと体の芯まで響いてくるような重厚な音が鳴った。「……トロイメライ」高校のとき静と連弾した曲を思い出し、春花は微笑む。まさかこんな形で静と再会するとは思っても見なかったが、昔と変わらない優しさは春花の心に安心感を与えている。本当は静と音大に行きたかった。静と一緒にピアノを弾きたかった。もしもあの時一緒に音大に進学できていたら、自分はどんな人生を歩んでいたのだろう。ピアノ講師としてかろうじてピアノは続けているが、静との実力は雲泥の差だ。
静のマンションには防音設備の整ったピアノ専用の部屋がある。その他にも二部屋あり、荷物を置かせて貰うだけでもありがたいというのに、静は春花に一部屋使って良いと開け放した。初め遠慮した春花だったが、マンションは職場からさほど遠くない位置にあり通勤にも困らない。下手にリビングに居座るよりも自分の部屋で静かに過ごすことの方が迷惑にならないのではと考えて、春花は次の家が決まるまでありがたくここに住まわせてもらうことにした。「俺は夕方から外出するけど」「あ、私も夕方から仕事なの」「ん、じゃあこれ渡しておくよ」差し出された手を両手で受ける。と、固くてひんやりとした感触に目を疑った。「こ、これ……」「うん。鍵」「だ、ダメだよ」「どうして? 鍵がないと困るだろ」「でも……」「自由に使っていい。俺は仕事の時間がバラバラだから」そのまま握らされ、合鍵に良い思い出のない春花は戸惑いながらも大事に受け取る。無機質なモノなのに、やけに心が騒がしいのはなぜなのか。ぽっと灯る柔らかな温もりはゆっくりと浸透していくように、春花の心を包み込んでいった。夕方、レッスンのために出勤した春花を見た葉月は眉根を寄せ、手招きしつつ春花を呼びつけた。「ちょっと山名さん、何だか顔色悪いけど大丈夫?」指摘され、春花は頬を両手で押さえる。昨晩高志にアパートを追い出されビジネスホテルに泊まったわけなのだが、全くといっていいほど眠ることができなかった。今朝は朝食もそこそこにアパートへ戻り荷物の整理をしていたのだ。昼食もとっていないことに今更ながら気づく。「あ、ちょっとプライベートでいろいろあって。すみません、仕事に迷惑かけて」「別に迷惑はかけられてないけど。これからレッスンよね、大丈夫?」「それは大丈夫です。それより店長、今度レッスン風景を見学したい方がいまして」「体験レッスン? いつも通りやってくれて構わないわよ。」「あ、じゃなくて、見学したいのは桐谷静さんなんですけど」春花の言葉に、葉月は作業中の手を止める。改めて春花と目を合わせると、不思議そうに首を傾げた。「……え? 桐谷静ってピアニストのじゃないわよね?」「はい、そのピアニストの」「……え、山名さんとどういう関係なの?」「実は高校のときの同級生なんです」「やだっ! 何でそれを早く言わないのー? もしかして一曲
どれくらい経った頃だろうか。ぼんやりとヘタりこんでいる春花の元に、静が息を切らしながらやってきたのは。「山名」名前を呼ばれて見上げれば、静が険しい顔で春花を覗き込む。「事情はだいたい理解した。まずは荷物を持って俺のところに避難しよう。ここは今月で契約解除すればいい」春花の腕を取って立ち上がらせようとするが、春花はフルフルと首を横に振る。「でもそうしたら高志が住めなくなる」「そんなの知ったことじゃないだろ? 今月末で退去の旨を知らせておくだけで十分だ。山名が責任を感じることはない。むしろ乗っ取られてるんだから訴えても良いくらいだ」「だけどこれは痴情のもつれというか」「山名」「夫婦喧嘩は犬をも食わないみたいな」「山名」「私がちゃんとしてなかったから」静がいくら呼び掛けても、自暴自棄になっている春花は答えようとしない。静はすうっと息を吸い込むと凛とした声で名前を呼んだ。「春花!」その声に、まるで時が止まったかのように静寂が訪れる。春花は目をぱちくりさせながら恐る恐る静に視線を合わせると、静はふと表情を緩めてから柔らかく春花を自分の胸に引き寄せた。「春花、落ち着け」「う、ううっ……」改めて名前を呼ばれ、春花の感情は大きく揺さぶられる。「昨日連絡先を聞いておいてよかったよ。春花は俺が守るから」静が抱きしめる腕の力が強まる。 暖かく包まれているうちに、春花の中にあった禍々しい感情がすっと落ち着いていくのがわかった。
ポロ、ポロ……と涙が溢れ落ちた。泣きたいわけじゃない。ただ悔しくてやりきれない想いが春花の心をぐちゃぐちゃにする。電子ピアノをスタンドから降ろしてカバーを付けソフトケースに入れる。両親が離婚して引っ越しをする際、ピアノを売ることになったあのときの気持ちとよく似ている。今回ピアノは売らないが、突然訪れた出来事に頭がついていかない。喪失感が春花を支配し、理解することを拒絶しているようだ。――ブブブ、ブブブ、突然携帯電話が震え出し、春花はビクッと肩を揺らした。恐る恐る手に取ると画面には【桐谷静】と表示されており、春花は涙を拭ってからそっと通話ボタンをタップする。「……もしもし」『山名? 昨日イヤリング落としてないか? 楽屋の忘れ物で届けられてたみたいなんだけど』「え? あ、うん」『山名?』「うん」『泣いてる?』「……ううん」『嘘だ』「……桐谷くん」穏やかで優しい静の声は春花の耳にたおやかに響き、やがて体全体へ浸透していく。その安心できる声に、一度止まった涙が再び溢れ出した。『どうした?』「うっうっ、桐谷くんどうしたらいいか……」『……山名、今どこにいる?』静の声色が緊迫したものに変わる。静にこんな話をしていいものかと一瞬躊躇ったが、それよりも今は誰かに話を聞いて貰いたいことの方が気持ちが大きい。春花は泣きながら現状を伝え、事実を口にするたび悔しさが込み上げてきて時々嗚咽が漏れた。『山名、ゆっくりでいい、落ち着いて』耳に響くその声はしっとりと優しく、すがりたい衝動に駆られた。